作者:しょうきち
10月に入り、暫くが過ぎた頃。
秋風が冷たさを帯び、校門脇に植えられた落葉樹も紅く染まる、そんな季節。
放課後。終業のチャイムと共に帰宅の路に就く生徒、部活へ向かう生徒、様々な生徒たちで通学路が溢れ返る中、一際沈痛な面持ちの女子生徒がいた。
眼鏡がトレードマークの文学少女、如月未緒である。
「ふぅ、こないだの模試、今一つだったなぁ。もっと頑張らないと……」
先ほど結果の帰ってきた模擬試験の結果を眺めながら、未緒は深い溜息をこぼしていた。
国内有数の難関校である一流大学を志望する受験生の未緒であるが、10月という大学受験においてそろそろギアを一段上げていかねばならない季節に入ったものの、近頃成績が伸び悩んでいた。
伸び悩むとはいっても、未緒の志望学部は人文学部であり、受験における主要な科目である国語、英語、日本史といった文系科目について問題は全くない。もしも受験科目がこれらのみであったなら、仮に明日が入試本番であったとしても楽々トップクラスで合格できるであろう能力を既に持っている。
しかし、歴史的に官僚養成学校としての前身を持つ一流大学は、特定分野のみを極めたスペシャリストより、広範で穴の無い知識を持ったゼネラリストが入試や入学後のカリキュラム、ひいては卒業後の進路においても尊ばれる傾向がある。
そのため入学試験では必要科目が広範に渡り、一次試験において5教科8科目、二次試験において4教科5科目が課せられており、数学や理科などの理系科目も必須なのである。特に数学は二次試験でも課せられる。無論試験問題の難易度も国内最高峰を誇る。
未緒は理系科目、特に数学が大の苦手であった。
これが一流大以外の、一段劣るレベルの大学であれば一科目で多少落としてもリカバリーは十分に可能であったであろう。しかし、全国からトップクラスの成績優秀者が集まる一流大学においては、一次試験などは全科目平均得点9割超えが当たり前の世界であり、満点すらちらほらといる。
未緒の成績としては、調子如何によっては足切りすら危ぶまれるところなのである。
最早弱点をこのままにしておくわけにはゆかず、現在未緒は予備校を複数掛け持ちしている。これまで通っていた大手予備校に加え、数学等の理系科目を集中的にカバーするため、先月から個別指導型の理数系専門予備校にも通っていた。
(『このときの作者の気持ちを考えなさい~』って問題なら、一瞬で答えが浮かび上がって来るのになぁ……。どうして数式とか証明問題とか見ると、頭痛が収まらないんだろう……)
未緒の憂鬱の原因は模擬試験の不振だけではない。 今日はこれからその理数系専門予備校に通うところだった。
本日予定されている授業は数学Iの漸化式である。一次試験レベルであれば定型的な問題しか出ないこの分野であるが、一流大学の二次試験にあってはその難易度は等比級数的に跳ね上がる。未緒にとっては二次試験レベルのものは勿論、一次試験レベルの問題も苦痛極まりない難度ではあるが。
近頃数学を集中的に復習している未緒は、高難度の問題文を見るだけで吐き気と頭痛がするのだ。
(ゲーテの詩集とかなら、原語版だってすらすらと読めるのに……。日本語なのに、どうしてこんなに頭に入ってこないんだろう……)
制限時間内に正解に至るためには、ある種神憑り的な、幾重にも絡まった糸を一瞬で解きほぐすようなパズル的センスが要求される。こうした難問を朝飯前に苦もなく解けるのは、それこそ紐緒結奈のような理系の申し子くらいのものであろう。未緒にとっては未知の原語で書かれた暗号文のようなものだ。
「はぁ~っ……」
未緒は再び溜息をこぼした。意気消沈し、とぼとぼと歩く歩みは重い。
「頑張ってるかな? 受験生っ!」
「きゃぁっ!? さ、沙希ちゃん?」
突如として背後から力強く肩を叩かれた。未緒の親友、虹野沙希であった。
このところ三年生は授業も受験生コースと一般コースに別れていることもあって、沙希と顔を合わせるのは暫くぶりである。受験生コース、その中でも一流大学や医学部等の超難関校を目指す特進コースで勉強漬けの生活を送っている未緒は、一般コースの沙希と顔を合わす機会が著しく減っていた。
沙希の居る一般コースは、後は卒業を待つのみといった状況であり、二学期以降はほとんど自由登校といった感じで、出席日数さえ足りていれば遅刻も早引きもわりかし自由、といった緩さである。
「未緒ちゃん 。久し振りっ! 暫く顔会わせて無かったけど、元気してた? 顔色悪いよ?」
「う~ん、あんまり……かなぁ。受験勉強、思うように進まなくて……」
「大丈夫! 元気を出して。未緒ちゃんなら出来るわっ。自分を信じて、根性あるのみよっ!」
「こ、根性、ねぇ……。うーん……」
近頃の未緒は根を詰めるあまり睡眠時間を平均四時間程度まで圧縮している。元々病気がちな身体としては、既に限界ギリギリまで頑張っているところである。気持ちが落ち込んでいるのも、成績不振もあるが睡眠不足による疲労も大きかった。このような状況で、これ以上どこでどんな根性を発揮せよと言うのか。乾いた雑巾を更に絞れと言うのか。未緒は無神経な友人の言葉に、少なからずムッとしていた。
「……そう言う沙希ちゃんは、ちょっと見ない間に、何だか変わったね。綺麗になったっていうか、大人びたっていうか……」
「そ、そうかな。えへへ……」
未緒の眼前ではにかんで見せる沙希は、紅葉の季節でありながらまるで季節外れの向日葵のように輝いて見えた。メイクやアクセサリーが派手になったとか、顔つきが変わったとか、痩せたり太ったりしたという訳では無い。しかし、どこか全体的な雰囲気が以前とは違う。
目に見えて大きく何かが変わった訳でも無いのだが、肌は艶みを増し、体型は柔らかな丸みを帯びると共に引き締まるところはキュッと括れ、ほんの数ヶ月前には無かった女らしさを感じさせている。潤んだ瞳に濡れた唇。何か良いことがあったにに違いない。
これは恋ね……と、未緒は直感的に察した。
「沙希ちゃん、ひょっとして好きな人でも出来た……?」
沙希は驚きと共に目を見開いたが、すぐにぱぁっと破顔し、悪戯そうな笑みを浮かべた。隠していた何かがバレたが、本当は誰かに喋りたくて喋りたくて堪らなかったような、そんな表情だ。小さく舌も出している。
「もう、未緒ちゃんは私の事、みんなお見通しだね。まだ、誰にも秘密なんだけど……聞いてくれる? 実は私ね……今、お付き合いしてる人がいるの……」
「ええっ!? 本当に!? 相手は誰? クラスメイト? それとも、野球部の誰か? エースの市川君とか?」
「違うの、年上。きらめき高校の外。……でも、未緒ちゃんも知ってる人」
「そんな人いたっけ? ……あっ! ……でも、まさか!?」
「うん、あのときの人。シン君。出会いはあれだったけど、ええと、まぁ、その、あの後色々あって……」
「色々あってって……でも、沙希ちゃん! だ、だって、あの人は、沙希ちゃんにあんな事を……。それに、私の事だって……!」
二人が処女を失う切欠となったあの夏の日の出来事は、男慣れしていない未緒の心中にはある種沙希におけるそれ以上に強固な心的外傷を植え付けていた。
未だに年頃の男子と話すときなどは動悸が止まらなくなり、気絶しそうになる事がある程だ。
ちなみに先日も下校時に突如未緒に声を掛けてきて、デートに誘ってくれた男子がいたが、唐突な誘いに頭がフリーズし、ノータイムで「嫌です」と返答していた。
確か他のクラスの早乙女という男子だった。後から考えれば申し訳ない事を言ってしまったものだ。
そんな未緒とは正反対に、沙希は生まれて初めて出来た彼氏に大層夢中な様子である。
「言わないで、未緒ちゃん。今の私、本当に充実してるのよ。未緒ちゃんにだけは言っておきたかったの。分かってくれないかもしれないけど、私の事、いっぱい愛してくれてるの。理屈じゃないのっ……」
「沙希ちゃん……!」
瞳を潤わせそう語る沙希に、未緒は言い知れない不安感を覚えたが、何も言う事が出来なかった。これ以上言葉を重ねれば沙希との間の友情に重く、深い楔が打ち込まれ、やがて亀裂が走る。そんな予感がしたからだ。
「未緒ちゃんも、彼氏が出来たりすればきっと分かるよ。受験勉強もいいけど、たまには息抜きも必要なんじゃないの? 一日くらい男の子と羽目を外してみてもいいんじゃない? 目の下のクマ、凄いよ? ほら、可愛い顔が台無しだよ?」
未緒の眼鏡をひょいとつまみ上げながら、沙希が言った。沙希からすれば無邪気に親友を心配しての言葉であったが、タイミングが悪かった。限界近くまでメンタルが追い詰められている未緒にとっては、張り詰めていた糸が切れるのに十分なものであった。
「ふざけないでっ!」
激昂した未緒の手が、眼鏡に手を掛けていた沙希の手を払った。眼鏡がアスファルト上に飛んだが、未緒は構わずに捲し立てた。
「み、未緒ちゃ……」
「いい加減にしてっ! 毎日遊んで回ってる沙希ちゃんと違って、こっちはもう一日も無駄に出来ないのっ!」
「未緒ちゃんっ……!」
言われた沙希は勿論、言った未緒の方も含めお互いに、目を点にして『やってしまった……』といった表情をしていた。鳩が豆鉄砲を喰らったような顔、とでも云うべきところだろうか。
未緒は反射的に激昂してしまった自分自身に、深い後悔の念を抱いていた。
そう、沙希は、大事な親友であるこの少女は、決して人を傷つけるような事を好んで言うような子ではない。それは未緒自身が誰よりも知っていることだ。これほどまでに暗く、荒んだ思いが胸中に渦巻いているのは、誰でもない、自身の中に原因があるためなのだ。今まさに、少女から女へと瑞々しい開花の時を迎えようとしている沙希に対し、元々度の強い眼鏡を掛けた地味な容姿で、更に今は目は窪み肌はカサカサ、生理も重めで遅れがちという状況にある自分自身が嫌でも対比させられ、唐突に劣等感を刺激されたためなのである。
沙希に謝りたい、時間を巻き戻したいと、心の底から思う。しかし、勢いのままに吐き出される言葉は、最早未緒の意思で留める事が出来なかった。親友を寝取られた事による嫉妬心が心の奥底にメラメラと沸き起こり、淀んだヘドロのような醜い言葉が、止めどなく口をついていた。
「沙希ちゃんは酷いよっ! こっちはずっとあの日の事がトラウマになってるのにっ! それに、受験が終わるまではそんな余裕が有る訳無いの、分かってるでしょ!? 毎日遊んで回ってる沙希ちゃんにはこっちの大変さなんて分からないのよっ! どうせ初彼が出来たって自慢したいだけなんでしょう!? いつだって『運動部のアイドル』なんて呼ばれて男子にチヤホヤされてさ、彼氏なんてさぞかし選び放題でしょうねっ!」
「み、未緒ちゃん……! ご、ごめん……ごめんなさいっ! 私……デリカシーの無い事ばかり言って……」
「沙希ちゃんのバカっ、もう知らないっ!」
未緒は眼鏡を拾うと、逃げるように通学路を走り去っていた。眼からは大粒の涙がこぼれていた。
(私って、ほんとバカ……。何であんな酷い事……。あんな事言いたくないのに、言っちゃいけなかったのにっ……。謝らなきゃ……謝らないと……)
息を切らし、泣きじゃくりながら走り去ってゆく未緒。その最中、胸中ではこのまま居なくなってしまいたい気持ちと今すぐUターンして沙希のもとへと戻って謝りたい気持ちとが攻めぎ合っていた。
(はぁ……はぁ……。あの曲がり角……。あそこを曲がるときに振り向いて、まだ沙希ちゃんがその場に居てくれてたら、戻って謝ろう)
心中で何とか捻り出した折衷案である。
曲がり角まで到達した。咄嗟に振り返り、声を上げる。
「沙希ちゃ……ごめんなさいっ! 私……、私っ……!」
しかし悲しいかな、沙希のいた場所に人影はもう無く、未緒の眼鏡に映しだされたのは秋風に舞う紅葉のみであった。
未緒は、次に沙希に会ったら何を置いても必ず謝ろうと胸に誓った。
しかしその思いが果たされる事は、遂に無かった。
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