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スピリットサージ
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経過報告31 ―― 8月1日

 いろいろあったのがウソのように、目をさましたときに俺は俺に戻ってた。あのときと同じくすんだ白い天井が目の前にあった。ほんとあっけなかった。詩織は涙まで流して紐緒さんの手を取って喜んでいた。俺はその様子をベッドに座って遠い出来事のように眺めていた。


「近所の挨拶とかさ、クラスの仕事も俺がしてやったんだぜ。ひとつぐらい感謝の言葉があってもバチはないだろ?」
 俺は実験用の黒い大きな机に両腕を横にして顎を乗っけて、そこに置かれていた昆虫ケースの中のカエルに愚痴ってた。指でプラスチックのケースをつつくと、そのカエルはゲコゲコ壁をよじ登るみたいにピョンピョン跳ねてた。どこにでもいるごく普通の緑色のカエルだった。たぶんアマガエルだったと思う。プラスチックケースには底から2センチほど水が入れられてて、カエルが跳ねるたびに飛び散ってた。よっぽどそこから逃げ出したいのか、俺に向かって必死で何かを伝えようとしているみたいだった。

「あなたいつまでここにいるつもり」
 机の向こう側で、データを打ち込んでいた紐緒さんが横目でこっちを見てそう言った。
 彼女はそれっきりキーボードを叩くのをあきらめたみたいにフラスコとアルコールランプで淹れたコーヒーに手を伸ばし、ゆっくりと時間をかけてすすっていた。外で運動部の練習する声とセミの鳴き声が聞こえていた。夏休みの午後らしい感じだった。紐緒さんは大きな息を吐いて椅子の背もたれにもたれかかった。斜めに垂れかかった前髪がいつものように断片的に片目を隠してて、彫刻みたいにドライな表情をしてた。
「はっきり言って邪魔よ。ここは休憩場所じゃないぐらいあなたの頭でもわかるでしょ」
「あー、体がだるい。帰ってもすることないんだしさ。っていうか、他に誰もいないじゃん。紐緒さんの仕事振りを眺めてるよ。女の子が頑張ってる姿を見てるのって嫌いじゃないんだよね」
「それが邪魔だっていってるの。そもそも検査でも問題はなかったでしょ。夏休みの課題でもしたら。また藤崎さんに借りを作ることになるわよ」
「そのときはそのときだよ。詩織は?」
 紐緒さんは片手で前髪を横にした。彼女の目は俺を見てなかった。紐緒さんはどこでもないどこかを見つめていた。
「帰ったんじゃないの。早くシャワーを浴びてたいって言ってたし」
「ほらね、自分の用事がすんだらさっさと帰る。あいつはそういうやつなんだよ」
「顔を合わせづらいのよ。彼女の性格的に」
「あのさ、いつから紐緒さんは詩織の味方になったわけ?」
 紐緒さんはなにかを言いかけたけど途中でやめてた。変わりに壁のほうを見つめていた。三脚台に置かれたビーカーがアルコールランプに炙られてブクブクと泡を立てていた。横を向いたままため息をついていた。俺はまるで自分がバカにされたみたいでちょっとイラッとした。
「そうだ。好雄だよ、好雄。伊集院とこの兵士に連れてかれたろ」と、話題を変えた。

「彼がどうしたの」
 紐緒さんの冷淡な口ぶりに俺が驚いてしまった。
「俺がどうしたのだよ。てっきり紐緒さんはとんでもない復讐を練ってるかと思ったのにさ」
「言っておくけど、必ずしもあなと私の意見は一致しないことを認識しなさい。それであなたは彼に会ってどうするつもりなのかしら?」
「とっ捕まえてぶん殴るにきまってるだろ。ギッタンギッタンにしてみんなの前で土下座させてやる」
「ぬるいわね」
「頭もバリカンで丸めてやるさ」
「……それぐらい彼は平気でしそうだけど?」
「そうだとしてもだよ。いったいなんだよ、調子くるうな。あいつはあれだけのことをやらかしたんだぜ」
「もちろん彼のしたことは人として許されるべきレベルの物ではないわ」
「ならさ」
「……彼は裏庭で蝶でも追いかけてるんじゃないかしら」
「蝶? 好雄が? 俺をバカにしてるの?」
「私はいたって真面目だけど」
 そういって紐緒さんは、机に置かれてた昆虫ケースに視線を落としていた。

「学校にもおいおい連絡がいくと思うけど」
 紐緒さんが低い声で言った。
「クラスの男子は理事長の特別な配慮で交換留学生として海外に行くことになったわよ。いまごろ海の上じゃないかしら。好雄くんを除いて」
 不思議に感じたのは紐緒さんの口ぶりだった。まるで俺以外の人間に聞かせているみたいだった。
「あいつらが? 英語もまともにできないくせに? どこにさ。まさかハワイじゃないだろ」
「ジンバブエ」
「ジンバブエ??」
 その名前を聞いても俺にはピンと来なかった。というか、ジンバブエがどこにあるのかさえさっぱりわからなかった。
「あなたも行きたい? ジンバブエはとてもいい国よ。大自然があってすごく自由で。現地の家庭にホームステイさせてもらえるそうだし、みんな”女の子みたい”に可愛がってもらえるんじゃないかしら。もっとも二度と日本の地を踏むことはないだろうけど」
 俺は頭の中の情報を総動員して、アフリカにあるらしいジンバブエとそこに住む人々を想像しようとしていた。頭に浮かんだのは灼熱の太陽と乾いた大地と影のように日焼けした人々だった。きっとライオンとかゾウとかキリンとかいるんだろうなと思った。あんなやつらでももう会うことがないかと思うと少しばかり憐れな気がした。
「虹野さんたちは?」
「心配?」
「そりゃー、俺のせいでもあるしさ」
「殊勝なことを口にするのね」
「からかうなよ」
「だけど、それを言うなら今回の実験をした私にも責任があるわね」
「紐緒さんは悪くないよ。好雄があそこまで暴走するとは俺も思わなかったんだしさ」
「ありがとう。でも、なぜかしら。あなたにそう言われてもまったく慰められた気持ちにならないの」
「悪かったな」
「とりあえずいまは会わないほうがいいわね。とくにあなたは」
「どうして、まさか何かあったのか?」
「そうじゃなくて、何も覚えてないの。ここひと月のあなたの行動に関連する出来事も、好雄くんやクラスの男子の乱暴も。あの別荘に泊まりに行ったこと自体ないことになってかわりにみんなでクルージングに行ったことになってるはずよ」
「すべて忘れてる?? 虹緒さんが詩織とレズったことやなんやかんや?? そんなことありえるの?」
「ありえるのよ、世の中にはそういう守るべき秘密を守るために作られた特別な技術が。そういえば好雄くんもされたことがあると言ってたわよね。どうやってそのプロテクトを外したのか……まあ、彼は普通とはちょっと違ってたからとっさに記憶を消されたふりをしてたのかもしれないわね。とにかくむやみにこの一件を話さないことよ。話す必要性もないと思うけど」
 その話を聞いて俺はいくらか寂しさを感じてた。虹野さんが泣きながら俺のことを好きといってくれたことや、優美ちゃんがとてもよく慕ってくれたことや、美樹原さんが俺に焼きもちを焼いたことや、そういう特別な思い出がすべてなかったことになるかと思うと、すぐに彼女らのところにいって本当の記憶を大声で教えてあげたい気持ちになった。じつは中身は俺だったんだってさ。
 その反面、これで良かったとも思っている。結局は彼女たちが恋愛の対象と見てたのは詩織の姿をした俺なわけで、俺の姿をした俺ではない。辛い記憶に苦しんだり、悪夢にうなされるよりはるかにマシだ。詩織にしたって虹野さんにデートに誘われても困るだろう。
「いいんじゃないの。紐緒さんがそうしたんならさ。紐緒さんはいいわけ?」
「さっきも言ったでしょ。私には科学者としての責任があるの……でも、あれは廃棄すべきね。あなたもこりごりでしょ」
 紐緒さんはコーヒーカップに口をつけて、残りのコーヒーを冷静に飲み干していた。
 俺はなんだかもったいない気がした。結果はどうあれ、あれはすごい装置だったと思う。きっと素晴らしい賞だって取れただろうに。


「私はそろそろ行くわ。あなたは間違えて藤崎さんの部屋に戻らないように」
 そう言って紐緒さんは立ち上がると、カエルの入った昆虫ケースを両手で持った。そうしてまたケースの中を無言で見下ろしていた。
 何かを感じ取ったみたいにカエルはゲコゲコ鳴いて、壁にぶつかって飛び跳ねてた。まるで助けを求めるみたいにプラスチックの壁をよじ登って俺を見てた。
「そのカエルどうするつもりなの?」
「どうすると思う?」
 そのとき俺は正直寒気がしたんだ。紐緒さんの発する冷気みたいなものを感じたからさ。瓶にホルマリン漬けになったカエルたちの視線を背中に感じていた。お腹を切られて標本になったカエルたちはいったいどんな気持ちでホルマリンの液体に漬かっているのだろう?
「蛇と一緒のゲージに入れてみるのも面白そうよね。ちょうどいいアオダイショウがいるのよ。あなたも見てみる? このカエルが丸呑みにされるところを」
 俺は首を横に振ったさ。
「むごいなー。動物虐待じゃん」
「動物虐待」と紐緒さんは言葉の意味を噛み砕くみたいに繰り返していた。
「虐待は感心しないわね。でも、丸呑みにされてもすぐには死なないのよ。胃液によって生きたまま皮膚がドロドロに溶けていくの。そのまえに取り出して、メスでお腹を切ってあげる。楽しみね、どんな声で鳴くのか。動いてる心臓に釘を打ってあげようかしら」
 カエルはあきらかに必死になって跳ねてた。ゲコゲコ、ゲコゲコ、うるさいぐらいに鳴いてさ。目をかっ開いてた。
「まるで紐緒さんの言葉がわかってるみたいだよ」
「興味深い意見ね。カエルが人間の言葉を理解するなんて。あなたにはファンタジーの才能があるみたい」
 紐緒さんは下を向いて含み笑いをしてた。
「あんまり酷いことはしないでやってよ。よくわかんないけど他人とは思えない感じがするんだよね、そのカエル」
「あなたはカエルに知り合いか親戚がいるのかしら?」
「まさか。言ってみただけだよ」
「心配しなくても気絶しないようにしてあげる。途中で気を失ったりされたら楽しみが半減だもの」

 紐緒さんはしばらくのあいだ黙って両手で抱えた昆虫ケースをじっと見下ろしていた。
「知ってた? カエルを殺しても殺人罪には問われないのよ」
 それはどちらかというと俺じゃなくてカエルに言い聞かせている感じのしゃべり方だった。声もすごく平坦だった。
「へんな紐緒さん。そんなのあたりまえだろ。カエルを殺したぐらいで捕まる国なんかどこにあるんだよ。疲れてるんじゃないの?」
「……そうかもしれないわね」と紐緒さんは落ち着き払った声で言っていた。
「だからあのとき警告してあげたのに」
「え、なに? なんっていったの?」
「あなたじゃないわ。ひとり言」
「やっぱりへんなの」
 部室を出て行くとき紐緒さんはびっこを引くようにして歩いてた。その後姿がやけにおかしくて俺は思わず吹き出しそうになったのさ。



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